スピードの外側にある「カッコイイ」

スピードの外側にある「カッコイイ」

ある日、聖飢魔Ⅱのライブ動画に寄せられていたひとつのコメントが、私の価値観を根底から揺るがしました。

スーパーカーを運転しながら
法定速度を守ってるような
「恰好良さ」
― SoulSmith『航路』より

どの動画だったのかは、もう覚えていません。
でもこの言葉だけは、なぜか今も心の奥に突き刺さったままです。

──そうか。
“速い”だけが格好良いんじゃない。

それまでの私は、車やバイクの運転に対して「速さこそ正義」だと思っていました。
エンジンを唸らせ、加速で風を切る。それがパワーの証であり、「カッコよさ」だと信じていたのです。

特に夜道や信号の少ないバイパスを走るときなんかは、
スピードメーターを睨みながら「この加速感、気持ちいい」と思ったものでした。

誰に見せるでもなく、ただ「自分の中の何か」を満たすようにアクセルを踏む。
その瞬間だけは、自分が何か特別な存在になれたような、そんな気がしていたのかもしれません。

スピードには、ある種の中毒性があります。

一度出してしまうと、もう戻れない。
「前よりもう少し速く」「もっと刺激を」――そうやって、感覚が麻痺していく。

気がつけば、目的地に向かうための“運転”ではなく、
スピードを感じることそのものが“目的”になっていた。そんな時期もありました。

だからこそ、この言葉に出会ったとき、
私は「違う恰好良さ」があることに気づかされたのです。

本当に格好良いのは、他者を蹴散らして先に行くことじゃない。
流れの中で静かに、美しく振る舞う“余裕”にこそ宿るのだ。

ウィンカーを早めに出す。
歩行者には車幅を取って譲る。
合流したそうな車にはスッとスペースを作る。
――そんな、“余裕を感じさせる運転”こそが、本物の格好良さなのです。

今では、この言葉に恥じないよう、無理なスピードは出さず、
「安全運転こそ一番格好良い」をモットーにハンドルを握っています。

もちろん、“速さ”が悪いわけではありません。
ただ、街中で無理にスピードを出す姿は、格好良いどころか「余裕がなさそう」に見えることすらある。

その考えのもと、今日も私は、静かな恰好良さを目指してハンドルを握っている。

スピード? いいぞ。もっと出せ。
足りないな。もっとだ。
カーブが曲がりきれないだと?
……それは自己責任だ。

求めるなら、スピードにも“美学”がある。
けれど、それはこういう世界の話だ。
“日常”のステージで本当に大切なのは、
速さより「美しさ」や「優しさ」じゃないか。

Let words be the wind. And the Ark sail.

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